はじめに
「音楽の父」—。そう称されるヨハン・ゼバスティアン・バッハは、その壮大で知的な音楽から、まるで神のような孤高の存在として語られることが少なくありません。しかし、彼の人生は決して高尚な哲学に満ちたものではなく、むしろ一人の職人として、熱心な信徒として、そして大家族を養う父親として、地道な努力と人間的な葛藤に満ちたものでした。
この記事では、彼がどのようにして不朽の名作を生み出すに至ったのか、その波乱に満ちた生涯を、彼の情熱的で、時には不器用な人間的な部分に光を当てながら深く掘り下げていきます。音楽の歴史を動かした巨匠の、知られざる素顔に迫りましょう。
楽師の家系
1685年、バッハはドイツのアイゼナハで生を受けました。彼の家系は代々続く音楽家の名門で、親族の多くが楽師やオルガニストとして各地の宮廷や教会で活躍していました。幼い頃から音楽に囲まれて育ったバッハは、父からヴァイオリンの手ほどきを受け、その才能を急速に開花させます。しかし、彼が9歳の時に母を、10歳になる頃には父をも亡くし、若くして孤児となります。
その後、兄のヨハン・クリストフに引き取られたバッハは、兄が持つ楽譜を夜な夜な書き写して独学で研鑽を積みました。15歳で学校を卒業すると、すぐにオルガニストや宮廷楽師としての職を転々とします。この頃の彼は、類まれなオルガンの即興演奏で知られるようになり、彼の演奏を聴くために遠方から人が集まるほどでした。
ある時、オルガン音楽の巨匠ディートリヒ・ブクステフーデの演奏を聴くために、何と50kmもの道のりを歩いて行ったという逸話が残されています。このエピソードは、若きバッハの音楽に対する途方もない情熱と、誰よりも貪欲に学び続ける職人気質を物語っています。
この時代に作曲された作品
この時期の作品は、彼が師と仰ぐブクステフーデや、当時のドイツ音楽の影響を強く受けつつも、彼の圧倒的な技巧と情熱が感じられます。
トッカータとフーガ ニ短調
パッサカリアとフーガ ハ短調
ケーテンでの創作
1717年、バッハはケーテンの宮廷楽長に就任します。ケーテンの君主レオポルト侯は熱心な音楽愛好家で、バッハの才能を高く評価しました。この宮廷はルター派ではなく改革派であったため、教会音楽の義務が少なく、バッハは純粋な器楽作品の創作に没頭することができました。
この時期は、バッハの創作活動が最も充実した時代の一つです。彼はチェンバロ、ヴァイオリン、チェロのための独奏曲や協奏曲を数多く手がけました。それは、彼の技術的な探求心と、楽器の可能性を最大限に引き出そうとする意欲の表れでした。彼はこの時期に、後に「音楽の旧約聖書」と称される『平均律クラヴィーア曲集』や、現代でも広く愛される『ブランデンブルク協奏曲』を完成させます。家庭生活も安定し、二度の結婚で20人もの子どもをもうけました。
この時代に作曲された作品
この時期の作品は、純粋な音楽的構成美と、楽器の特性を活かした精緻な書法が特徴です。
ブランデンブルク協奏曲
平均律クラヴィーア曲集第1巻
無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ
ライプツィヒでの多忙な日々
1723年、バッハはドイツ最大の都市ライプツィヒにあるトーマス教会のカントル(音楽監督)という、多忙な職務に就きました。彼の仕事は、教会の礼拝で演奏されるカンタータを毎週作曲し、指導することに加え、トーマス学校の教師としてラテン語や音楽を教え、市の行事の音楽も担当するという、過酷なものでした。
バッハは、この時期に「音楽の父」と呼ばれるにふさわしい、壮大な教会音楽の数々を生み出しました。特に、イエス・キリストの受難を描いた『マタイ受難曲』は、彼の深い信仰心と、人間の感情を音楽で表現する能力が最高潮に達した作品として知られています。しかし、彼は多忙な日々の中で、時に対立も生みました。上司である市参事会と、音楽の質の向上や弟子の待遇を巡って激しく意見を対立させ、時に頑固で譲らない一面を見せました。
この時代に作曲された作品
この時期の作品は、彼の敬虔な信仰心と、職務に対する責任感が凝縮されています。膨大な量の教会カンタータが毎週のように書かれました。
マタイ受難曲
クリスマス・オラトリオ
ミサ曲 ロ短調
晩年の悟り
ライプツィヒでの晩年、バッハは肉体的な衰えに苦しむようになります。特に視力の低下は深刻で、最後にはほとんど目が見えなくなってしまいました。しかし、彼の創作意欲は衰えることなく、むしろ内省的で普遍的なテーマを追求するようになりました。
彼はこの時期に、音楽の真理を追求した壮大な作品群を生み出しました。例えば、『フーガの技法』は、一つの主題が複雑に変化していく過程を、まるで宇宙の法則を解き明かすかのように探求した作品です。これは、もはや演奏されることを目的とした音楽ではなく、純粋な音楽理論と数学的な美しさの極致でした。
1750年、バッハは65歳でこの世を去りました。彼の死後、その音楽は「古臭い」「難しい」と評され、長い間忘れ去られていました。しかし、約80年後にメンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を再演したことで、その真の価値が再認識され、バッハは「音楽の父」として歴史に再臨しました。
この時代に作曲された作品
この時期の作品は、音楽の普遍的な法則を探求し、彼の生涯における思想のすべてを集大成しています。
フーガの技法
ゴルトベルク変奏曲
頑固で熱血な素顔
バッハは、私たちが想像するような「天才」ではありませんでした。彼は自らの才能を「神から与えられたもの」と捉え、「私と同じように努力すれば、誰でも私と同じことができる」と語ったとされています。彼の偉大さは、類まれな才能だけでなく、それを磨き続ける飽くなき探求心と、音楽に対する真摯な姿勢にあったのです。
彼は非常に熱血漢でもありました。音楽の即興演奏で人を感動させ、その音楽に対する情熱から、時には弟子を殴ったり、上司と激しく口論したりするような、人間臭いエピソードも残されています。また、二度の結婚で20人もの子どもをもうけた子煩悩な父親でもありました。彼の子どもたちの多くが優れた音楽家になったのは、彼が家族を愛し、教育に熱心だった証拠です。
まとめ
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの生涯は、敬虔な信仰心と、決して妥協しない職人気質、そして家族への深い愛情に支えられたものでした。彼の音楽は、単なる知的な構築物ではなく、一人の人間が、神の栄光のために、そして家族のために、全身全霊を込めて紡ぎ出した、生命の輝きそのものです。彼の音楽に耳を傾けるとき、私たちはその完璧な調べの奥に、人間バッハの情熱と努力の結晶を感じ取ることができるのです。
