【ベートーヴェンとシューベルトの関係】生い立ちや音楽の特徴を比較。

作曲家解説
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はじめに

クラシック音楽の歴史において、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンフランツ・シューベルトは、それぞれが巨星として輝き、後世に計り知れない影響を与えました。

彼らは同時代にウィーンで活動し、異なるアプローチながらも、深い精神性をもって音楽を創造しました。

本記事では、この二人の偉大な作曲家の関係性、それぞれの生い立ち、そして彼らの音楽がどのように交錯し、あるいは対照をなしたのかを深く掘り下げていきます。

時代の交差点:ウィーン楽壇

19世紀初頭のウィーンは、ヨーロッパ音楽の中心地として揺るぎない地位を確立していました。

ハイドンやモーツァルトが礎を築いたこの地で、ベートーヴェンは古典派音楽の集大成とロマン派音楽への橋渡しを担い、シューベルトはリート(歌曲)というジャンルを芸術音楽の域にまで高めました。

しかし、彼らが活動した時代は、ナポレオン戦争後の動乱期であり、ウィーン体制下の抑圧された社会情勢でもありました。

こうした光と影が交錯する中で、二人の作曲家はそれぞれの苦悩と喜びを音楽に昇華させていったのです。

ベートーヴェン

ボンからウィーンへ

1770年ドイツのボンに生まれたベートーヴェンは、幼い頃から音楽の才能を発揮しました。

宮廷音楽家であった父から厳しい教育を受け、やがてモーツァルトとの出会いを夢見てウィーンへと旅立ちます。

しかし、その夢は叶わず、代わりにハイドンに師事することになります。

ウィーンでのベートーヴェンは、ピアニストとしての名声を確立するとともに、作曲家としても頭角を現します。

初期の作品は古典派の様式に則りながらも、すでに彼独自の力強さと情熱が垣間見えました。

特に、1790年代後半から始まる「傑作の森」と呼ばれる時期には、ピアノソナタや弦楽四重奏曲において、従来の形式を打ち破る革新的な試みが行われます。

難聴との闘い

しかし、ベートーヴェンの人生は、20代後半から始まった難聴という苛酷な運命によって大きく変化します。

聴覚の喪失は、彼から演奏家としての道を奪い、深い絶望へと突き落としました。

有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」には、その苦悩が赤裸々に綴られています。

しかし、この困難を乗り越えたベートーヴェンは、内なる音楽の世界へと深く潜行していきます。

聴覚を失ったことで、彼はより純粋な音の響きを心の中で捉え、それを楽譜へと書き起こすことに集中するようになったのです。

この時期に生み出された交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」などは、その後の音楽史に決定的な影響を与えることになります。

後期の様式

晩年のベートーヴェンは、難聴がさらに悪化し、外界との交流も希薄になります。

しかし、その内面で響く音楽は、ますます深遠かつ超越的なものとなっていきました。

交響曲第9番「合唱付き」や「ミサ・ソレムニス」、後期のピアノソナタや弦楽四重奏曲は、人間精神の極限に挑むかのような、哲学的な深みと普遍性を持っています。

ベートーヴェンは、音楽を単なる娯楽や形式美に留まらせず、人間の感情、哲学、そして宇宙の真理を表現する手段として捉えました。

彼の音楽は、苦悩の中から生まれ出た希望と、困難を乗り越える人間の精神の強さを象徴していると言えるでしょう。

シューベルト

ウィーン郊外の生い立ち

1797年、ウィーン郊外のリヒテンタールに生まれたフランツ・シューベルトは、ベートーヴェンより27歳年下にあたります。

教師の家庭に育ち、幼い頃から音楽に囲まれた環境で成長しました。

特に歌曲においては、10代の頃から驚くべき才能を発揮し、その数は生涯で600曲以上に及びます。

彼は、古典派の形式を学びつつも、ゲーテやシラーといった詩人たちの優れた文学作品に感銘を受け、詩と音楽を融合させた新たな表現を追求しました。

シューベルトの歌曲は、感情の機微を繊細に描き出し、聴く者の心に直接訴えかける力を持っています。

シューベルティアーデ

ベートーヴェンが孤高の存在であったのに対し、シューベルトは友人たちとの交流を深く愛しました。

彼の住まいには、音楽家、詩人、画家などが集い、「シューベルティアーデ」と呼ばれる音楽会が頻繁に開かれました。

そこで彼は自作の歌曲やピアノ曲を披露し、友人たちはそれに熱狂しました。

しかし、ベートーヴェンとは異なり、シューベルトは生前にその才能が広く認められることはありませんでした。

彼の作品は、友人たちの間では高く評価されたものの、大衆的な成功には恵まれず、経済的にも常に困窮していました。

短い生涯とロマン派への道

シューベルトはわずか31歳という短い生涯を閉じます。

その短い期間に、彼は歌曲だけでなく、交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲など、あらゆるジャンルで傑作を生み出しました。

特に、交響曲第7番(または第8番)「未完成」や「グレイト」は、その後のロマン派交響曲の方向性を決定づける重要な作品となりました。

彼の音楽は、ベートーヴェンのような力強さや劇的な展開とは異なり、内省的で叙情的な響きが特徴です。

美しく流れるような旋律、色彩豊かな和声、そして深い悲しみや喜びが織りなす感情表現は、ロマン派音楽の幕開けを告げるものでした。

直接的な交流と間接的な影響

ベートーヴェンとシューベルトは、同時代にウィーンで生活しながらも、直接的な交流はほとんどなかったと言われています。

しかし、彼らの間に全く接点がなかったわけではありません。

憧れ:シューベルトからベートーヴェンへ

シューベルトは、若い頃からベートーヴェンを深く尊敬し、その作品に大きな影響を受けていました。

ベートーヴェンの音楽が持つ力強さ、形式の革新性、そして深い精神性は、シューベルトにとって畏敬の念を抱かせるものであったに違いありません。

伝説によれば、シューベルトはベートーヴェンの葬儀に参列し、棺を担いだ一人であったとされています。

また、シューベルトの友人であるシューパウンツィヒは、シューベルトがベートーヴェンに作品を献呈し、その返礼としてベートーヴェンから賛辞を受け取ったという逸話を残しています。

この逸話の真偽は定かではありませんが、シューベルトがベートーヴェンの存在を強く意識していたことは想像に難くありません。

シューベルトの交響曲や室内楽作品には、ベートーヴェンの影響が随所に見られます。

例えば、大規模なソナタ形式の楽章や、主題の労作、そして劇的な展開などは、ベートーヴェンの影響なしには語れません。

しかし、シューベルトは単に模倣するのではなく、そこに自身の叙情性やメロディックな才能を融合させ、独自の音楽世界を築き上げました。

ベートーヴェンのシューベルトへの認識

一方、ベートーヴェンがシューベルトの音楽についてどれほど認識していたかは、明確な記録が少ないため、定かではありません。しかし、晩年のベートーヴェンがシューベルトの歌曲集を高く評価したという証言が残されています。

シューベルトの友人で出版業者であったアンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、ベートーヴェンの死の数日前、彼がシューベルトの歌曲を数曲聴き、その独創性と詩的な深さに感銘を受けた、と語っています。

ベートーヴェンは、「本当にこのシューベルトという男は、神の恩寵を受けているのだ。彼は私の後に続くことになるだろう」と述べたとも伝えられています。

この逸話が真実であれば、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認め、自身の後継者として期待していたことになります。もし二人が生前にもっと深く交流していれば、どのような化学反応が起こったのか、想像力を掻き立てられるところです。

音楽様式の対比と継承

ベートーヴェンとシューベルトは、音楽様式においても興味深い対比と継承の関係にあります。

ベートーヴェン

ベートーヴェンは、ハイドンやモーツァルトによって確立された古典派音楽の形式を深く理解し、それを最大限に活用しました。

しかし、彼は単なる形式の遵守に留まらず、その中に個人の感情や哲学を深く込め、劇的な表現力と形式の拡大を追求しました。

彼の作品は、古典派の枠組みの中で、すでにロマン派的な情熱や主観性を内包しており、その後の音楽史の流れを大きく変える原動力となりました。

特に、ソナタ形式におけるコダ(結尾部)の拡大や、主題の徹底した展開は、ベートーヴェンが古典派からロマン派への橋渡しを担った証拠と言えるでしょう。

シューベルト

一方、シューベルトは、ベートーヴェンの残した遺産を受け継ぎながらも、より明確にロマン派の道を切り開きました。

彼の音楽は、ベートーヴェンのような大規模な構築性よりも、叙情性、和声の色彩感、そして内省的な感情表現に重きを置いています。

特に、歌曲における彼の革新は、音楽史に大きな足跡を残しました。

シューベルト以前にも歌曲は存在しましたが、彼は詩の内容を深く掘り下げ、ピアノ伴奏も単なる和音の補助ではなく、詩の世界を表現する上で不可欠な要素として扱いました。

例えば、「魔王」では、ピアノが馬のギャロップを模倣し、ドラマティックな情景を描き出しています。

また、彼は連作歌曲という形式を確立し、物語性を持たせた作品を生み出しました。これらのアプローチは、その後のシューマンやブラームスといったロマン派の作曲家に大きな影響を与えました。

まとめ

ベートーヴェンとシューベルトは、直接的な交流こそ少なかったものの、ウィーンという同じ地で、互いの存在を意識しながら音楽を創造していました。ベートーヴェンは、古典派の形式を極限まで押し広げ、そこに人間の精神性を深く刻み込むことで、後のロマン派音楽の扉を開きました。

一方、シューベルトは、ベートーヴェンの影響を受けつつも、独自の叙情性と和声感を追求し、歌曲というジャンルを芸術音楽の域にまで高めるとともに、ロマン派音楽の先駆者としての役割を果たしました。

彼らの音楽は、ウィーンという都市の豊かな文化と、当時の社会情勢を背景に生まれました。ベートーヴェンの音楽が持つ力強さと普遍性は、困難を乗り越える人間の精神の象徴であり、シューベルトの音楽が持つ繊細さと叙情性は、人間の内面に深く寄り添う慰めとなりました。

現代においても、ベートーヴェンとシューベルトの作品は、世界中で愛され続けています。彼らの音楽は、単なる歴史的な遺産ではなく、今もなお私たちに語りかけ、感動を与え続けているのです。ウィーンの街に響いた二つの魂の共鳴は、クラシック音楽の豊かな響きとして、これからも永遠に私たちを魅了し続けることでしょう。

参考文献

  • 岡田 暁生『ベートーヴェン 苦悩を突き抜ける歓喜』岩波新書(2011年)
  • 西原 稔『シューベルト カラー版 作曲家の生涯』新潮社(2017年)
  • アニタ・ディーターズ、ハンス=ヨーアヒム・クルーゼ『ベートーヴェン その生涯と作品』音楽之友社(1999年)
  • オットー・エーリヒ・ドイッチュ『シューベルト 生涯のドキュメント』音楽之友社(2002年)
この記事を書いた人
@RAIN

音高・音大卒業後、新卒で芸能マネージャーになり、25歳からはフリーランスで芸能・音楽の裏方をしています。音楽業界で経験したことなどをこっそり書いています。
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