はじめに
音楽に携わる中でケルト音楽とアイリッシュ音楽という言葉を耳にする機会は非常に多いですがこれらは似て非なる概念を指しています。結論から述べるとケルト音楽とは複数の国や地域にまたがる広義の文化圏を指す総称でありアイリッシュ音楽はその中に含まれるアイルランドという一国家の伝統音楽を指す具体的な名称です。
この関係性を理解するためにはまずケルトという言葉が何を象徴しているのかを歴史的な視点から紐解く必要があります。かつて中央ヨーロッパから西ヨーロッパの広い範囲に居住していたケルト民族の文化を継承している地域は現在のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、マン島、コーンウォール、ブルターニュ、ガリシアといった複数のエリアに分かれています。
これらすべての地域で奏でられる音楽を包括してケルト音楽と呼びます。
広義のケルト
ケルト音楽という言葉にはアイルランドの音楽だけでなくスコットランドのバグパイプ音楽やフランス北西部のブルターニュ地方で演奏される民族音楽も含まれます。これらは共通のルーツを持ちながらも数千年にわたる時の流れの中でそれぞれの土地の風土や宗教的背景と結びつき独自の進化を遂げました。
例えばブルターニュの音楽にはフランス的な優雅さが混じりガリシアの音楽にはスペインの乾燥した大地を感じさせる力強さが宿っています。このようにケルト音楽は一つのジャンルというよりも複数の地域音楽をまとめる大きなカテゴリーとして機能しています。
狭義のアイリッシュ
対してアイリッシュ音楽はアイルランド島で育まれた音楽に限定されます。アイルランドの音楽は他のケルト圏の音楽と比較しても旋律の装飾性が極めて高く独自の発展を遂げてきました。ダンスミュージックとしての側面が非常に強くパブなどで人々が集まり即興的にセッションを行う文化が現代まで色濃く残っています。
現在私たちがケルト音楽として認識している楽曲の多くが実はアイルランド由来のものであることも少なくありません。このことが二つの言葉を混同させる大きな要因となっていますが厳密にはアイルランドの音楽はケルトという巨大な樹木から伸びた一本の太い枝であると言えます。
歴史的な差異と背景
歴史を振り返るとケルト音楽という概念が一般に浸透したのは比較的最近の出来事です。1970年代から80年代にかけてワールドミュージックというジャンルが確立される中でマーケティング的な側面からこの言葉が多用されるようになりました。
かつてのケルト民族は文字による記録をあまり残さなかったため太古の音楽がどのような形であったかを完全に再現することは困難です。現代のケルト音楽はそれぞれの地域に伝わる民謡や舞曲を再構築したものと言い換えることができます。
民族移動の影響
ケルト民族は紀元前からヨーロッパ全域を移動しておりその音楽的感性は各地の先住民族と融合しました。アイルランドは大陸から切り離された島国であったためケルト的な精神性が最も純粋な形で保存されたと言われています。
一方でスコットランドやウェールズはイングランドからの圧力を強く受けた歴史があり音楽の中にも闘争や哀歌としての側面が強く現れています。アイリッシュ音楽が18世紀から19世紀にかけてジャガイモ飢饉による大量の移民と共にアメリカへと渡りカントリーやブルーグラスの源流となった点も他のケルト音楽にはない独自の歴史的背景です。
現代への変遷
1990年代にはリバーダンスに代表されるアイルランドの舞台芸術が世界的に大ヒットしアイリッシュ音楽の知名度は爆発的に高まりました。同時にエンヤのようなニューエイジ的なアプローチでケルトの精神性を表現するアーティストが登場したことで神秘的で癒やしを感じさせるケルト音楽というイメージが固定化されました。
本来のアイリッシュ音楽は非常にエネルギッシュで土着的なものですが現代のリスナーが抱くケルト音楽のイメージはこの時期に形成された美しい旋律と広大な世界観に基づくものが主流となっています。
楽器編成の比較
使用される楽器に注目するとそれぞれのジャンルの特性がより明確に見えてきます。ケルト圏全域で見られる共通の楽器もありますがアイリッシュ音楽においてのみ特別な進化を遂げた楽器も存在します。これらの音色の違いが音楽全体の色彩を決定づけています。
アイリッシュの楽器
アイリッシュ音楽を象徴する楽器としてまず挙げられるのがイーリアンパイプスです。これはスコットランドのハイランドパイプとは異なり口で吹くのではなく肘を使って空気を送る仕組みを持っています。音色が柔らかく室内での演奏や繊細な表現に適しておりアイリッシュ音楽特有の流麗な旋律を奏でるのに欠かせません。
伴奏用のレギュレーターという鍵盤状の管を備えており和音を奏でることができる点も他のバグパイプにはない特徴です。またティンホイッスルと呼ばれる安価な縦笛も中心的な役割を果たします。
さらにフィドルと呼ばれるバイオリンはクラシックの奏法とは異なり独自の装飾音や弓使いで荒々しくも美しいメロディを紡ぎ出します。打楽器ではボウランと呼ばれる片面太鼓が用いられこの楽器の叩き方一つでアイリッシュ独自のグルーヴが生まれます。
他のケルト圏の楽器
他のケルト地域では例えばスコットランドであれば力強い音色が特徴のグレートハイランドバグパイプが主役となります。ブルターニュ地方ではボンバルドというダブルリード楽器が多用され非常に鋭く大きな音が特徴的です。またケルト音楽全般を象徴する楽器としてハープがありますがこれもアイルランドでは国章に採用されるほど神聖視されている一方、ブルターニュなど他の地域ではより装飾的で幻想的な使われ方をする傾向があります。
北スペインのガリシア地方ではガイタと呼ばれるバグパイプが用いられイベリア半島特有の乾いたリズムと融合しています。これらの楽器の違いによって同じケルトという括りの中でも音の密度やエネルギーの方向性が大きく異なります。
楽理的な詳細分析
音楽理論の観点から両者の違いを分析すると旋律の構成やリズムパターンに顕著な特徴が見られます。特にアイリッシュ音楽には他の民族音楽にはない高度な装飾技法が確立されています。
旋法とスケールの運用
ケルト音楽の多くは現代の一般的な長音階や短音階だけでなく古い教会旋法に基づいたメロディを持っています。特にミクソリディア旋法やドリア旋法が多く用いられるためどことなく懐かしくもどこか異質な響きが生まれます。アイリッシュ音楽においてはこれらの旋法をベースにしながら特定の音を意図的に外したり滑らかに繋げたりするカット、ロール、クランといった装飾音が多用されます。
これにより単純なメロディラインが複雑で表情豊かなものへと変化します。この装飾の緻密さこそがアイリッシュ音楽が音楽的に高く評価される理由の一つであり演奏者の個性が最も表れる部分でもあります。
リズムの構造と差異
アイリッシュ音楽の真骨頂はダンスのためのリズムにあります。代表的なリズムには4分の4拍子で急速に演奏されるリール、8分の6拍子で跳ねるようなジグ、そして独特のシャッフル感を持つホーンパイプなどがあります。これらのリズムは一見すると単純ですが演奏者が拍の頭を微妙にずらしたり強弱をつけたりすることで非常に心地よいスウィング感を生み出します。
一方で広義のケルト音楽の中にはブルターニュの複雑な奇数拍子のダンス曲やスコットランド特有のストラススペイと呼ばれる独特な付点リズムなども含まれておりアイリッシュのリズム体系とはまた異なる数学的な面白さを持っています。
鑑賞と実践のポイント
実際に音楽を聴く際にこれらがどちらに分類されるかを判断する基準はどこにあるのでしょうか。最も確実なのは楽曲の構成とエネルギーの質を感じ取ることです。
セッションとステージ
アイリッシュ音楽は基本的に円になって演奏するセッション文化が根幹にあります。パブの片隅で誰かが知っている曲を弾き始めると周囲がそれに加わりメドレー形式で次々と曲を繋いでいくスタイルです。そこには聴衆に聴かせるための完璧な構成よりも演奏者同士の対話やその場の熱量を重視する傾向があります。
これに対しケルト音楽として発表される作品はコンサートホールでの演奏や映画音楽としての利用を想定した緻密なアレンジが施されていることが多いです。ストリングスを加えたりシンセサイザーを用いたりして壮大な自然や神秘性を演出している場合はケルト音楽というラベルが貼られる傾向が強くなります。
歌のスタイルと物語性
歌に関しても違いが見られます。アイリッシュ音楽にはシャン・ノースと呼ばれる伝統的な無伴奏の歌唱法があり非常に深い感情表現を伴います。内容は政治的な苦難や失恋、日々の生活を歌ったものが多く極めて個人的で具体的な物語性が特徴です。
一方で広義のケルト音楽における歌は言語そのものが持つ響きを重視した抽象的なものや伝承に基づいた幻想的なテーマが多く選ばれる傾向にあります。言葉の意味が分からなくてもその声の響きだけで世界観が完結しているのがケルト音楽的な歌の魅力と言えるでしょう。
文化としての結びつき
ケルト音楽とアイリッシュ音楽の違いを理解することはヨーロッパの多様な文化の広がりを知ることと同義です。アイルランドの強烈な個性とその根底に流れるケルトの精神性は互いに影響を与え合いながら現代の音楽シーンに豊かな彩りを与えています。
論理的に言えばアイリッシュ音楽はケルト音楽という巨大な円の中に含まれる一つの確固たる円です。しかしその中身はあまりにも濃密であり単なる一部として片付けることはできません。それぞれのジャンルが持つ独自の楽器、リズム、歴史的背景を意識しながら耳を傾けることでこれまで以上に深くその魅力を享受できるようになるはずです。
参考文献
海老島均・山下理恵子編著『アイルランドを知るための70章』明石書店、2011年
三上敏視『アイリッシュ・ミュージック・ガイド』全音楽譜出版社、2001年
守安功『アイルランド音楽への招待』東京書籍、1995年
松山晋也『めかくしプレイ:ワールドミュージック究極の100枚』シンコーミュージック、2002年
大貫憲章『ケルティック・ヴォイス』幻冬舎、1998年

